春にそなえて

身近なハーブ・野菜で からだ美人になる自然派レシピ

身近なハーブ・野菜で からだ美人になる自然派レシピ

ちょうどこんなおいしそうな本が欲しいなと思っていたら今日ランチした相模湖のカフェ アミーユで発見。相模湖を拠点の一つにされている方が監修された本ということでそれもうれしい。
今日は山にも一時間ほどのぼって、山芋のツルをたくさんとった。
これから春になったらまた山が楽しくなるなぁ。

あ、こんな時間にお昼に食べたアミーユのカレーが食べたくなってきた。

森と子どもとアーティスト エピソード2

さて、天草でのお話から数日後、牟田さんから連絡がきた。翌年1月に森の中でワークショップをさせてもらえることになった。しかも自然学校の先生の岩熊さんと。なんて縁だろう。外でのワークショップも初めてだし、自然とアートという切り口でワークショップを構成するのも初めてだったけれど良い予感しかしなかったので即こちらからも参加をお願いすることにした。

私は天草から帰って地元の山に足を運んだ。太宰府には何度も行ったことがあるのに森の中には入ったことがなかったのでこちらの山とどんなふうに違うのかなといろいろ想像してみたり。山に行くとほんとに季節によって、日によって目につくものが違うのがおもしろい。岩熊さんから現場となる太宰府市民の森の資料を頂いたり、自然学校のお話からアイディアを頂いたりしながら少しずつ方向性を決めて行った。

幸い一月初旬に太宰府に行くことだできたので場所の下見もできた。下見どころかまほろば自然学校の散策に同行させてもらった。コースは思っていたよりも整備されて歩き易いところなのだけど、岩熊さんも子ども達もコースからどんどんはみ出ていって積極的に薮の中に入っていってはいろんな発見をしてくる。岩熊さんは虫の領域が専門。その時期しか見つけることができない虫、その生体をお題として提示して子ども達に探させる。
目的のものをみつけてる間に思いもよらぬものが見つかったりしておもしろい。小さいアリがぎっしりつまった朽ち木、冬イチゴ、イタチのフン、冬眠中のハサミムシ(?)。
市民の森のコースの先には広場が大中小と広場が3つあるキャンプ場があった。なんとなくそこにきたとき、自分が小学生だったときのある記憶がふわっとでてきた。友達と広場で枯れ葉を集めて山にしたりして遊んだときのこと。上にねっころがったり葉っぱの中に埋まったり。その遊びしたの一日だけだったんだけどすごく記憶に残っていた。ワークショップの材料はぼんやりとしか考えていなかったのだけどそのとき、『あ、材料は森から集めてくればいいんだ』と決めてしまった。森でするのだから思いつきそうなことなのに開催2週間前にやっと気がついた。

「森と子どもとアーティスト」エピソード

太宰府での「森と子どもとアーティスト」のきっかけとなった天草での制作を振り返ってみる。天草では陶芸で作品を展開。MICHISHIRUBE をテーマに自然からとってきた材料からストーリーをみつけるようにして作品を作ってみた。いままでオリジナルのストーリー(土地から得たもの)から形を作っることが多かったのでその天草での方法は私にとって新しい感覚だった。
素材を自然の中から採取。粘土に混ぜるためにつぶしたり、砕いたり。その作業の中にはいろんな時間(森の中でどんぐりが土になる時間、貝が白い砂になる時間)が凝縮されていて脳の中のいろんな記憶を刺激するようだった。
またそれらの素材が一体なんであるか分からないものが多かった。木の実、どんぐり、貝といってもその種類も豊富だし、特性もさまざま。私は図鑑を買って読みこむかインターネットの検索ばかり。偶然出会ったその素材が持っている意外な特性を知るたびに作品が盛り上がっていった。

今までの作品には材料として金属板、針金、透明板、単カンといった既製品の人工物を使うことが多かった。それにはちょっとワケがある。そのワケは作者である私が持つあるSF的な光景への憧れである。ここでいうSF的光景というのは例えば映画E.T.に出てくる森の中に設置された通信機のある光景、スターウォーズの中の森や荒れ地にメカニックな人工物が登場する場面など、土っぽい気配の中にある科学と空想の人工物のある光景のことだ。またその光景は実は私の育った土地でよくみる光景と良く似ていた。山の中に突然現れる大きな鉄塔、だだっ広い畑に刺さっている元々はなんだったのかよくわからない不揃いの長い棒、古いビニールハウスに集められた廃材。「なにかつくれそうな気がする。何か起こせそうな気がする」感がでている場所があちらこちらにあった。その時、自然は背景であって素材ではない、となんとなく距離をとっていた。


とここでもう一度自然物の話に戻ってみる。背景としてみていた自然物、実はそれ自体に背景がある。かつていろんな人がもとめて採取し研究され導かれた背景だ。それがたぶん自然科学とよばれたりする。生物学、地球科学、天文学。そんな自然物と人が関わることでそこに創作がうまれる。
自然物はサイエンスによって解かれフィクションによってひろがる? なんだかそれこそSF的なんじゃないか??という気がなんとなくしてきた。その予感っていうは本当に予感でしかなかったのだけどそれが今回太宰府でのワークショップにつながっていく。

天草での展示を太宰府から見に来て下さった牟田さんに『自然に詳しい方どなたかいませんかね〜』と私は訪ねた。そこでピンと牟田さんの頭の中に浮かんだ人がいた。それが
「森と子どもとアーティスト」で一緒に講師をすることになった岩熊さんだったのだ。

2月5日
今日は変な日だった。1ヶ月ぶりに相模湖の家にかえってきて制作しようとしたらなんかの拍子に国語辞書がみたくなって本棚をながめたら「日本SF精神史」が目に入った。買ってからまだ一度も読んでなかったけど今日1日かけて読んでしまった。
最近の自然採取の試みからの反動と今度試みるアートプログラムのもってる「タイムトラベル」要素とかが重なってその本に飛び付いた。
本の中盤かなり飛ばしたけどなんかひとつ自分の中に尺が増えそうなかんじ。

日暮れ直前、部屋のストーブ臭いのが気持ち悪くなって外へ。薄暗い明るいさ、どこかの焚き火の匂いと土の匂いがしてて空からはボーーっていう見えない飛行機の音のする中でさっきまで読んでいたSF史の世界がまたいい感じに頭の中で漂いだした。なんかいい予感がする。

同じように「買ったのに読めてない本」がまだ大量にある。どれも結構気まぐれに買ったのでまた今日みたいな感じで読めるといい。

「アート」とか「アーティスト」とかっていう言葉にとても消極的な理由

今さらだけど「アート」とか「アーティスト」っていう言葉に私は消極的な距離感をもっている。誰かに「アーティスト」って言ってもらえるのはすごくありがたいことなのだけど、自分で名のるかってところではまた別だ。ちょっと表現をはじめたころの10年前まで振り返ってみる。
私は高校3年のころから作品らしきものをつくり出した。もともとのきっかけは映像で作品をつくってみたいなってとこからはじまってその映像にうつるものをいろいろ考えているうちに段々立体をつくったりするようになっていった。そんなときずっと「アート」って言葉がまわりをうろうろしていてちらちらと目があう。そんな状態。

大学にいくと課題というのが出されてそれを自由に受け取ってえいっと作品にしてみる。私は作品をつくる上で「課題」というのに抵抗がなくてむしろ好きだ。
そのうち課題をもらわなくても「こんなのつくりたいなぁ、企画したいなぁ」ってなってきて押さえきれなくそうゆうのをどんどんつくったりしてみた。段々作ったものが増えてきてそれらを並べてみると、作品を作る上で軸になっているものだけはどうやら信じていいような気がしていてた。周りにも「これがアートだ!」とか「それはアートなの?」とか言っている人(といってもまだまだ狭いおまけに濃い世界だったけど)も議論する人もいなかったような。いなかったわけじゃないけどいたとすればそれは作品を前にしての議論で聞いていてそれもすごくおもしろかった。

まわりには今までまわりにはいなかった種類の人ばかりでそれぞれぐんぐんといろんな表現とか場を求めているような感じだった。その人たちの中の熱がじわじわと発散されていくような空気の中に自分もいた。そうそう、「アート」ってことばを追求するよりも「表現」っていうのに一生懸命になってた。自分の中で「うわ〜ちょっとすごい!どうしよう。これおもしろい」っていうのをやっとのことで表にだせるっていう。しかも表にだすっていうのはほんとに神経を集中させればさせるほど面白くって自分でも表に出してみてからさらにびっくりすることもある。
それとは別に「アート」ってのはスパーンとなにかを切るような気持ちよいもんなんだろうなという感覚が自分のいた環境で自然にうまれてたかもしれない。けどアートって言葉からなにかがはじまる、って感じはなかった。それより表現を競う感じがすきだった。アートって言葉との距離感覚てそんな感じになっていった。

そこから外と関わろうとするとすでに外側には「アート」って言葉がたくさんあった。「アーティスト」とか「アートプロジェクト」とか。私の中にあった「なにかスパーンと切る感じ」っていうも外の世界に確かにあって段々自分の感覚と外の感覚が混ざっていった。段々と自分が求めてきた「表現」ってやつがどうやらその「スパーンと切る」ための武器だっていう感じがしてきた。よし、戦うぞと。
それでいろんな現場と出会うことでまたさらに「アート」ってものの感覚がみえてくる。
ある現場で私の持っている武器を出してみるとその現場のいろんなものが波立ったような気がした。まざってうもれてたものの中からしゅっと出てきてみえてくるものがあったりして。そうゆうポジションになることを「アーティスト」っていうのかなと。

「アーティスト」、そんな曖昧な距離感にあるものを自分で名のっていいのかと思いつつ、名のったり名のらなかったり。「芸術家」のほうがなんかしっくりくる。日本語だからとか英語だからとかって違いじゃない。
「アーティスト」でしっくりこない理由はアートをする前提で名のっているような気がしてしまうところなのかもしれない。関わってくる人が増えれば増えるほど前提と結果の時差がうまれてくる。
一方「芸術家」はもうちょっと人と物事が同時発生的という感じがして他者が関わってきてもずれがないような。「術」ってとこが「表現の武器」と重なるのかな。

「アーティスト」て名のった人がすることがアートになるんじゃなくて、
ある人がすることが「アート」になった。その人が結果アーティストって言われるのかなって。だから職業として「アーティスト」っていうのはどうなんだろう。でも自分はアーティストかどうかってことより「表現の武器」をよく磨いとかなくちゃいけない。地面によく突き刺さる軸のようなの。
結局「アート」っ概念がすでにあるようなものじゃなくて全然あたりまえじゃなくて簡単なもんじゃなく見えるか見えないか、すごくきわどいものっていう感覚があるからその言葉を積極的に使えないのかもしれない。

という言葉自体が「アート」について既に語ってしまっているなぁ。眠れなくなりそうだから今日はこれで終わる。けど10年目にしてはじめて真面目に「アート」について考えた。きっとほかにもすごい数の人が同じように「アート」について考えたりしてるんだろうからちょっとそうゆう本とか読んでみようか、っていう気にもはじめてなってきた。

ほんとうはここ数日ワークショップの記事を書こうとしてたのだけどなんかずいぶんさかのぼって振り返っていたらこんな記事になってしまった。

太宰府で「森と子どもとアーティスト」

太宰府にきております。
2012年最初の作品は太宰府の森で行う子ども達とのアートワークショップです。
開催は明後日29日!
「森と子どもとアーティスト」。昨年から「森〜、山〜、木〜」といろいろ言っていたのを形にする楽しい機会を頂きました。
天草での展示に太宰府の牟田さんたち(牟田アトリエ)が来て下さったのがきっかけでした。一緒に講師として参加してくださる岩熊さんは生物(昆虫が専門)学者さん。まほろば自然学校では森に子どもたちをつれて楽しく生き物や自然について知るための企画を実践されている方です。冬の昆虫、結構眠ってるっぽいのでそれもまた面白そう。いろいろ巻き込みながらおもしろ一日になるはず。

一日中のプログラムですが午前中は岩熊さんによる森の中のウォークラリー。午後は私のアートプログラムとなっています。せっかく森の中でつくるものだし、たくさんの参加者がいるので森のものをつかって地面にとある絵を描くというのをやってみたいと思っています。

その名も『スプリングリング』春を森につれてくる装置なのです。

今日は滞在させて頂いている山かげ邸というお家の庭で絵を描く実験をいくつかしました。
手を動かしては考える、考えては手を動かしてみる。こうゆう作業を開催地でさせて頂くというのはほんとありがたい!
外でやるので風や雨の心配もあるのですがそれはそれで楽しむ方法がみえてきました。
冬の生き物や植物は生き抜くためにいろんな戦法をもっているようです。それとおなじようにいろいろみんなで考えながら楽しく絵が描けたらいいな。

そして今晩はいつもいつもお世話になっている方達が集まって歓迎会を開いてくださるとのこと。おもてなしのスペシャリストです。楽しと同時に勉強にもなっちゃいます。


とっても赤い実は冬の森の中ですごく目立ちます。


幼虫は春になるとどうなるんだろ。


黄色い花がいくつか散ってた。なんて花だろう。いいにおい。


材料集めもたのしくなりそう。