絵をかきながら根っこと剣について考える


深夜4時
仮眠のつもりが長く寝てしまったのでこんな時間に作業を終えた。外をみると細い月。天草入りしたときは確か満月に近かったような。月の石ってどんな成分なんだろ。

朝ご飯の後は野菜村へ。財布だけ持ってでた。そんな時に限って道ばたで面白いものを見つける。
小さい焚き火で「ロック」って書かれた段ボール箱が燃えてた。帰り道にみたらもう燃えきってた。
なんかロックだなぁ。野菜村では柿とオクラとネギと卵を買った。


あつあつイメージをどうしてよう
今日は絵を描く。描きたいイメージと手の動きがリンクしてるんだかしてないんだかわからない。
描きたいイメージというのは山に入って感じたことや焼物制作の途中で浮かんだイメージ。メモをとることはできてもそのままの熱々のイメージのままはとっておけないようだ。ちょっと冷えて固まってしまって色素もぬけちゃったような感じで頭の中に残っている。
それが抽象化ってやつなのか。具体をあつめて煮詰めて抽出するかんじ。あまり言葉にしすぎると手がとまってしまうので描きながらいいのをみつけてく。



根っこと剣 
根っこのような構造は世界を知る為に必要である、と最近そんなことに感動している。山に入るたびに根は張り巡らされるし、知りたい!という気持ちで一杯になる。けどふとふりかえるとそんなことがなんかこわいような気もしてくる。
いままで知ることをふっとばして空の先や地面の先へイメージをほうりなげていたののにここにきてそうじゃないことをしているのだ。
根っこの構造で世界や地球を知る。自分の通して表に出そうとすると自分が根っこのどの部分にいたのかをすぐ見失ってしまう。
それをどんどんやっていったらほかの根の先の部分とはずっと離れてしまってう。そうそう、そうだったと思っても一晩寝たらまたねっこはどこかに生えてのびて根元が見つからなかったりする。

根元にもどって姿勢をとりなおす
この取り戻す作業は根を張るようにひろげる構造じゃなくて分岐しない一本を磨くことにちかい。剣のような武器みたいに。
切磋琢磨ていうし。○○の原石、なんていうし。
最近山や木、根っこのことで頭が一杯になっていたけれど実はいままでずっとその一本を磨き続けて武器のように身につけていたはずだ。自分の切り口をみつけて世界を切り開くように表現というやつをしてきたはず。



「THE SKY CONSTORUCTION 星制作機」2004 茨城

「地球停止計画」2006 茨城


「太陽のまわり26周目の参戦」2009 大分

じゃあ根っこをはりながら剣を磨く。根っこ丸ごと剣にしちゃうとか。ここに書いていても尽きないけれど、こんなことを考えたりできる環境がまず最高なのかもしれないし土や石を扱っているからこそ考えられてるのかもしれない。
絵はもちろん好きなようにかくけれど、考えるために描くようなことも結構増えてきたのかな。